脇田玲×MINOTAUR INST. 「ツールとして遊んでいる一方でその技術の本質をとらえる」

 脇田玲 (わきた あきら)
アーティスト/ 慶應義塾大学 環境情報学部 学部長
科学と現代美術を横断するアーティストとして、数値計算に基づくシミュレーションを駆使し、映像、インスタレーション、ライブ活動を展開している。Ars Electronica Center, WRO Art Center, Mutek, 清春芸術村, 日本科学未来館, Media Ambition Tokyo, 2121_DESIGN SIGHT などで作品を発表。主な展示に「高橋コレクション『顔と抽象』-清春白樺美術館コレクションとともに」(2018)、日産LEAFと一体化した映像作品「NEW SYNERGETICS -NISSAN LEAF X AKIRA WAKITA」(2017)などがある。 http://akirawakita.com/

「あらゆるところに電子的な技術が入り込んでいくフェーズにある」

松山(MINOTAUR INST.コラボレーションクリエイター) Tシャツのグラフィックデザインをジェネレーティブな手法やテクノロジーを使ってファッションとコラボレーションするという試みをMINOTAUR INST.の泉さんと3年ぐらいしています。もともとはTシャツから始まったんですが、今年のパリコレはオンライン開催だったので、MINOTAUR INST.のバーチャルエキシビションを作ったり。そうするうちに、もっといろいろなことを深めてやっていきたいと思うようになりました。そのためには何か新しい要素が必要だなと感じて、いろいろなクリエイターさんのお話を聞きたいなと思い、脇田先生にインタビューをさせていただくことになりました。

Moment / Sculpture / 2019

松山 MINOTAUR INST.はオウンドメディアも立ち上げているのですが、新しいストリートカルチャーのあり方を考える活動のアーカイブとして機能することを目指しています。僕たちが目指す新しいストリート感をポストストリートと呼んでいますが、そういった新しいカルチャーのあり方を探るカルチャーリサーチプロジェクトをMINOTAUR INSTITUTEとして活動しています。クリエイターアーティストという側面を持ちつつ、トップを走り続ける方々を輩出している学校の先生をしている脇田先生に、そういった場作りと、現代的なカルチャーとは切っても切り離させない関係性にあるテクノロジーのとらえ方についてお話を聞かせていただければと思います。

脇田 私は40歳を過ぎてから社会的なことを意識し始めたこともあって、実は『場作り』というのは得意ではないんですよ。20代や30代の頃は自分で作るということにかなりこだわりがあり、意見を交換し合ったり、社会に投げ込んだり、何かを仕掛けたりすることはほとんどしない人生を送って来ました。40を過ぎたぐらいから、たまたまいろいろな出会いがあり、そこで出会った人たちと一緒に自然と何かをしようという形になって、40代は場を作ってきた感じですね。

松山 そうだったんですね。

脇田 はい。今は大学の学部長をしていますが自分一人では何もできないので、学内コミュニティのそれぞれの得意な部分を編集者的に上手く生かしてキャンパス運営をしているんです。ただ、どこかで自分の創作欲は今も燃えているので、そこは時間をやりくりしてクリエーションの時間を捻出しています。そうしないと両方は維持できないだろうなという感覚がありますね。

松山 作ることに向き合う時間はとても大切ですよね。『場作り』についてですが、波長や周波数みたいなものがファッションやテクノロジー、クリエーションとはかかわらずに、深いところでフィロソフィーが合う人同士が上手く集まっているのかなと。その上でコミュニケーションを取りながら、作品が出来上がったら見せ合うといったことができると良いのかなと感じています。

脇田 そうですね。今は生活のあらゆるところに電子的な技術が入り込んでいくフェーズにあると思いますが、その裏にはプログラミングやオープンソースのカルチャーがあって、そのマナーやルールに影響されながら進んできたと思います。考えて、作り、共有する。そういうオープンソース的なカルチャーが様々な世界に浸透してきたのが、ここ2、30年の出来事という感覚はありますね。本当に大事なことは皆さん秘密にしているとは思いますが、そこはある程度切り分けた上で、共有できることを共有する。それがコミュニティを活性化させ、新しいコミュニケーションが生まれ、結果的にコマースが生まれる。人とのかかわり方もオープンソース的カルチャーになっているのかなと感じていますね。

松山 なるほど。

脇田 映像を一例に考えるとテクノロジーとカルチャーのかかわりも分かりやすいと思います。リュミエール兄弟が作った映写機は最初は一つの『技術』だと思うんです。その技術がどんどん広まってみんなが使うようになると、そこで新しい使い方が発見されたり、新しい表現が開拓されたりしていく。ちょうどその直後にシュルレアリスムの運動があったりして、ルイス・ブニュエルあたりを騎手として、その後の映像文化が作られていったと思います。かつてはただの技術にすぎなかったものが、その時代のムーブメントや人の想像力と結びついて、新しい文化が生まれる。100年経って、今ではアカデミー賞やカンヌ国際映画祭は文化的活動の象徴といった位置づけにまで至りました。そう考えると、メディアアートが服や身体表現と結びつきながら広がっていくと、次世代のファッションカルチャーが生まれ、新しい文化の中心として位置付けられる時期が来るかもしれません。

松山 個人的には今現在はカルチャーとテクノロジーとの関係性において、大きな変化の時期にいるのかなと思っています。これはあくまでも僕の印象ですが、テクノロジーが直接表現になる時代が来ているのかなと。テクノロジーを用いて表現を創作する人のコラボレーションの場というよりは、テクノロジーのプレーグラウンドのようになって、そこから新しい価値が生まれるということが起き始めているよう思います。

脇田 そうですね。

松山 僕個人としては、ストリートカルチャーを一種の自生するカルチャーだと思っています。このようなテクノロジーが直接、表現に昇華するような状況は、非常にストリート的だなという印象です。今という側面を切り取った時に、過去との違いや今後はテクノロジーのかかわり方が変わってくるといった考えはありますか?

脇田 普通は新しい技術と向き合うと「これは何に使えるんだろう」と考える人が多いと思うんですよ。つまり技術を道具として見る。ツールとして技術と向き合うという態度は一般的なものですが、その一方で「そもそもこの技術とは人類にとってどんなものなのか」という見方、つまり本質を見ようとする態度もあると思うんです。マルティン・ハイデッガーが言ったことですが、例えば小川を発見した時に「川の水で水車を作って動力にしよう」と思う人がいる。その道具論の延長には、水力発電があり、さらにより高度なエネルギーのシステムが考案されていくことになります。その一方で、そもそも小川の源流を遡っていくと、最初の一滴はどこから生まれのかという考え方もある。そうやって水の本質を見ようとする見方もあるわけです。技術への態度にはこの両方があると思っていて、ツールとして遊んでいる一方でその技術の本質をとらえようとしている訳です。

松山 確かに。

脇田 AIもツールとして使う一方で、そもそも知能とは人間にとってどんなものなのかという問いを引き起こします。そういった部分が大事な気がしますね。ツールとしてではなく「技術の本質って何だろう」と考えていくと、技術とは生き物みたいにどんどん広がっていくものだということが見えてくる。人間の中に技術が入り込んで自己増殖する。技術側としては自己増殖するために人間を乗り物として使っているといった考え方は昔からありますが、それは人間と技術の共犯関係なんです。つまり、人間はその技術を使って新しい表現やライフスタイルを生み出していき、一方の技術は人間の欲望に乗って自分自身を拡大させていく。技術が繁茂して一種の自生するカルチャーになるというのは、そういうことなのかなと思います。そのような視点からインターネットカルチャーやAIカルチャーを見てみると、人間の本質に迫れるし、面白いと思うんですよね